21『実現しうる目標』



 夢は、見るだけ無駄なものだ。
 適えても何の意味も持たない、下らないものだ。
 目指す価値など、どこにもないものなのだ。

 持つならば目標だ。
 自分の価値を高めるための目標。
 己を導いて行く目標。

 それを達成するためならば、どんなものでも犠牲にしよう。



 ティタとミルドの家は魔導研究所内ではなく、エンペルファータにある住宅地の一角に建つ小さな家である。魔導研究所の居住・宿泊施設棟は、基本的に独身者専用で、結婚して家庭をもつ者達は、住宅街に家をもつ事になる。
 一日の大半を研究所で過ごすこの夫婦の家は、研究室内とは違ってかなり殺風景である。それでも寝室には二人用のベッドがあり、若い夫婦は二人並んで床に付いていた。

「眠れないのかい? ミルド」と、ティタが身を起こしてサイドボードに置いてある水差しから水を注いでいるミルドに声を掛けた。
 ミルドは、ティタが目を覚ましているとは思っておらず、少し慌てた様子で妻を振り向いた。

「ああ、ごめん、起こしちゃった?」
「いや、あたしもちょっと眠れなくてさ」と、ティタも身を起こし、ミルドの方に手を差し出した。
 察したミルドは、今自分の手にもっている水をティタに渡すと、自分の分を別のグラスに注ぎ直す。

「フィリーの事でも考えていたのかい?」

 図星を指されて、ミルドは少し狼狽える。
 そんな彼の動揺を知ってか知らずか、ティタは続けて言った。

「娘のような子に、好きな男ができれば眠れなくなって当然か」
「う、うん、まあね」

 ティタのからかうような口調に、ミルドは苦笑する。
 フィラレスの事を考えているのは当たっていたが、ミルドはもっと別の事を考えていた。しかしそれはティタに当てられる可能性はない。彼は、ダクレーがフィラレスに対して考えていた事を彼女に話していないからだ。
 ともかく、フィラレスがダクレーの計画に参加する事を拒否した事には心底ほっとした。しかしあの執念深そうなダクレーがこのまま引き下がるとは思えない。安心する裏で何をしてくるか分からないダクレーを不安に思っていると、眠れなくなってしまったのだ。
 フィラレスは好きな異性を見つけたようだった。昔からそういう普通の女性としての幸せから縁遠い生活を送っていた彼女だったが、ようやくそれを掴みかけているのだ。これを逃すような結果にしてはならない。

 しかし、相手が少し意外だった。一週間前までは会った事もなかったリクとは。
 恋をするなら、相手はずっとフィラレスに好意を示し続けたカーエスの方だと思っていたのだが。
 そう考えると、リク=エールという人物に少し興味が出てきた。

「ところで、リク君の方はどう?」

 リクが“大いなる魔法”の情報を求めていることは昨夜ティタから聞いていた。そして今日上級魔導士試験を受けさせる事も。
 そうして注意深く観察しているティタなら、少しはリクの事を知っているはずだ。

 ティタは、溜め息を一つ付いてから答える。

「良く分からないね」
「良く分からない?」

 思わず、ミルドはティタに聞き返した。
 ティタの場合、良く分からない、という言葉は珍しい。彼女はいつも答えがはっきりしており、答えられない時の答えは「研究上の機密」か「考え中」のどちらかである。研究者としての誇りを持つ彼女にとって「分からない」は、研究対象に対する敗北宣言なのだから。

「魔法の知識はギリギリ必要範囲。それから、エスタームトレイルちょうど一本分の体力。普通なら、“あそこ”に耐えられる魔導士じゃない」

 その言い方はどうだろう、とミルドは思った。
 上級魔導士試験の合格ラインは九割以上なので、合格する時点ですでにほとんど満点であると言えるし、なにより上級クリーチャーまで駆り出すくらい難易度を厳しくしたエスタームトレイルだって、クリアできる魔導士といえば上級魔導士の中でも限られてくるのではないだろうか。
 そんなミルドの思考に気付く様子を見せずにティタはどこか遠くを見るような眼で続けた。

「でも、あたしは心のどっかでリク=エールに期待しているような気がする。初めは、クリアしても見込みが無い、の一言で終わらせる事も考えていたけど、いざ終わってみると、もう限界が見えたも同然なのに、まだ惜しいって思っちゃうんだよ。あの目を見てるとそんな気になる。フィリーが惚れたのも頷ける話だね」

 そう言って、ティタはミルドに笑顔を向けてみせた。
 確かに、会った時の一同を思い出すと、あからさまにフィラレスを始め、ジェシカ、コーダに慕われているし、あのカーエスも軽口の裏でリクを認めているところがある。
 あの青年魔導士には人を引き付ける不思議な魅力を持っているのかも知れない。

「ミルド」と、物思いにふける夫をティタが呼び掛けた。その目が自分に向けられるのを待って彼女は続けた。「何を隠しているのかは知らないけれど、あたしの事は気にしなくていいからね」

 う、とミルドは息を詰まらせた。
 流石に聡明な自分の妻は気付いていたのだ。ミルドが最近何かを思いつめている事、そしてその事でティタに影響が及ぶのを恐れている事を。
 半分気付かれないために、話題をリクの方に変えて、思いのほか上手くいったと思っていたのだが、彼女にはそんな小細工は通用しないらしい。

「アンタがこうと決めた道なら、あたしも一緒に歩いて行ける。思った通りにやんな」
「……ありがとう、ティタ」

 ミルドは微笑んで感謝すると、ゆっくりと顔を近付け、ティタに口付けた。


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 コンコン、と静寂の中にノックの音が響いた。執務机に座っていたディオスカスは黙って手元のコンソールを操作して、そのカギを開ける。

「失礼します」

 そう言って入ってきたのはディオスカスの腹心の部下、ドミーニク=バージャーだ。しかし、その肩書きほどにはディオスカスはドミーニクを信用していない。
 ディオスカスのコネを使って極限まで難易度を下げた試験でやっと上級魔導士になるほど能力は低く、ただ服従する事でひたすらディオスカスから何かを与えられるのを待っている、ただの小心者。
 ただし、ディオスカスはドミーニクのある一点に関しては認めている事がある。彼が自分を信じている事だ。心酔、もしくはほとんど狂信といってもいいほどに。

「何か用か?」

 ディオスカスは、執務机の上に広げられていた書類に目を落としたまま尋ねる。
 そのような態度にも何ら動じる事なく、ドミーニクは報告した。

「先ほどガナンより連絡がありました。魔導レーサーがほぼ完成したようです」
「ほう、昨日の今日でか? 目処がたったとは聞いていたが、思ったより早かったな」と、その報告に、ディオスカスは思わず顔を上げる。
「閃きを得た主任研究者が昨日から今日にかけて、睡眠もとらずに仕上げたそうです。あとは実験を残すのみ……これで全てのピースが揃いましたな」

 そう言ってドミーニクはディオスカスに不敵な笑みを見せる。だが、上級魔導士の資格を持っているとはいえ、長年現場を離れて肥え太った彼の顔にその表情は似合わない。
 不快感を憶えたディオスカスは、彼の顔から視線を外し、再び書類に目を落とす。

「うむ。確かに今からでも計画は開始できるが、もう少し時間を掛けたいところだな。まだ不安要素は無視できん範囲だ」

 上級魔導士の資格を持ち、それぞれ弟子を持って指導に当たっている教師を初めとした魔導士団の団員も九割方掌握しているが、残りの一割もどうにかしたい。
 カーエス=ルジュリスが連れてきているという客人のことも気になる。この計画にはフィラレス=ルクマ−スが深く関わってくるので、彼等の抵抗も計算に入れなければならない。今日の昼間にはカーエスとカンファータ魔導騎士団の副団長だというジェシカ=ランスリアが試合を行ったらしいが、見ていたものの話ではほぼ互角だったという。
 カーエスがもう一人増えた計算になると、幾分厄介だ。もっとも客人である彼等は永遠に留まる訳ではないだろう。せめてエンペルファータを出るまで待てば、ずいぶんと計画の遂行は楽なものになる。

 ディオスカスは今まで目を落としていた書類を閉じると、下らない雑誌であるかのように机に放って言った。

「例のフォートアリントンの事件で、カンファータとエンペルリースからウォンリルグとの戦争を警戒して魔導兵器の開発を急ぐように呼び掛けた件で、特別予算が届いたからこれを持って張り切って開発に勤しめ、との所長からの通達だ」

 彼が何を言わんとしているのかを察し、ドミーニクは意地の悪い嘲笑を浮かべて応じる。

「ククク、今のあなたからしたら滑稽としか言えませんな。まさか頼りにしている開発部長のあなたが、事件の焦点であるウォンリルグへの亡命を企てているなどとは夢にも思いますまい」
「全くだな。我々がこれだけ大きな事を計画しているのに、薄々勘付く様子すら見せん。やはり、奴は魔導文明の先端たるエンペルファータの長としては器が小さすぎる」

 溜め息にも似た吐息を付きながら、ディオスカスは言い、まるでそこに本人がいるかのように書類に視線を送る。その目は何ら良い感情という物を含んでいない冷たいものだ。
 長年、アルムス=ムーアという人物の下で働いてきたが、彼がその人物の評価として下した結論は、今の言葉と、彼の眼差しが全て語り尽くしている。その結論から、自分の方が魔導研究所所長という地位に適していると考え、あれこれ画策しながら次期所長の座を虎視眈々と狙い続けてきたこの数年だが、数週間前から、彼の考えは大きく変わった。

 今、魔導研究所が抱えている魔石問題は少々厄介だ。今、アルムスからその地位を奪ったとしても、その問題の解決に頭を悩まされ、結局責任を追求されて早々につまずいてしまう可能性は大きい。
 そこに、ダクレーからウォンリルグへの亡命という選択肢を示された。彼がどうやってウォンリルグの者と接触を持ったのかは分からない。しかし、彼が持ってきた書簡にはウォンリルグからの者である事を示す印章が押印されていたのだ。密かに研究部に回して確認を行ったが、それはまぎれもなく本物だった。
 その書簡にはディオスカスにウォンリルグへの亡命を勧めるもので、開発部長であり、魔導士団長のディオスカスの権限によって何かしらウォンリルグにもたらすものがあれば、ディオスカスをウォンリルグにてそれ相応の地位を約束する、という内容のものである。
 情報の少ないウォンリルグではあるが全くないと言うわけではない。魔石資源が豊富なことはその少ない情報の一つで、魔導研究所で働く者達の中では有名だ。その中で新たに魔導研究所を創設し、その長に収まれば、ディオスカスは何の問題もなく自分の野望を達成できる。
 それだけではない。話によると、ウォンリルグは戦争を企てていると言う。アルムスは魔導研究所の技術力をもって当たれば何の心配もないと思っているようだが、仮にウォンリルグが魔導研究所の技術力を手にすればどうなるだろうか。おまけに、研究所の抱える最大の武力、魔導士団も大半がウォンリルグに寝返るのだ。カンファータとエンペルリース、その二国合わせた力をもひっくり返せるかも知れない。
 そうしてウォンリルグが世界に覇を唱えるようになれば、名実共に世界の最先端となった新魔導研究所の所長である自分はどうなるだろう。まさに“文明の担い手”と呼ばれるにふさわしいではないか。

 -------夢も持ってねェような人間に、己の道が見えるもんかよ。

 かつて、魔導学校の校長であったディオスカスの下で教師をしていたファルガール=カーンを、魔導研究所から追放するために罠を仕掛けて生徒を傷付け、監督不行届きの責任を追求した際、夢という子供じみた言葉をくり返す彼を皮肉ったディオスカスに、ファルガールはそう答えた。
 不意に脳裏に蘇ったその言葉に、ディオスカスは苦笑を漏らした。

 確かに、彼のいう通りだった。
 亡命という選択肢が見えて以来、ディオスカスは自分が何をすべきか、という点について悩んだ事はなかった。ただ、見えている道を突き進んでいただけだ。それまでは常に自分には迷いと焦りが付きまとっていたというのに。

「……しかし、これは夢などという幻ではない。実現しうる目標だ」

 そのためには、亡命する前に持ち出せる者は全てここから持ち出さねばならない。

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